株式会社福岡県民新聞社、有限会社福岡経営企画の創業者、池田俊一氏が7月7日、逝去された。享年81歳。早すぎる死であった。訃報は各界にただちに流れ、多くの方々が悲しみに沈んだ。
池田氏は東京経済株式会社を平成4年に退社、福岡市中央区警固に事務所を構え福岡経営企画を設立した。
東京経済時代には、九州支社長として辣腕を発揮、次長の児玉直氏(株式会社データマックス創業者)とともに、東京経済躍進の礎を築いた。当時の調査会社としては斬新だった各社の秘密情報を掲載した「特別情報」を発行し、その売上げを中核に東京経済九州支社だけで売上5億円を突破する全盛時代を築いた。
独立してからは「福博噂話」、その後「福博ジャーナル」を発刊、募った会員の手元に送り続けた。
「自分は継続することを大切にしている。何があっても“ジャーナル”を書き、会員様のお手元に届けることを己に課してきた。それから一日、最低でも5人のお客さんや知合いと会うことを決めている。その積重ねが今の自分の財産だ。継続は力なり。それが座右の銘といっていい」
後進に語り続けた言葉だ。
「スーツは地味でしっかりしたものがいい。自分は同じ材質、同じ柄のスーツを何着も作っている。ユニホームだと思っているからだ」
この言葉も忘れ難い。お洒落でダンディでありながら、情報マン時代から派手な服装は嫌い、偉そうな振る舞いは避けた。人に尽くすのが我々のモットーと笑いながら語った顔は今でも記憶に残る。
池田氏が体調を崩されたのは3月頃であった。桜坂の喫茶店を訪れ、店主が開催するパーティーに日本酒を差入れされたのが筆者が見た最後の姿であった。その後、入退院を繰り返しているという報はあったものの、それほど悪くないとの情報だった。「来週には会おう」との電話をもらった者もいたという。最後は油山の見えるホスピスに移られたが、病室から見える景色に「ここは油山が見えてよかね」と陽気に語ったそうだ。届いたワインの配布先を愛息の池田浩一氏に指示したのが最期の言葉となったという。気配り、心配りの人である池田氏らしい。
池田氏は頼った人間には常に温かい言葉をかけて励ました。「情の池田」と評されるゆえんだ。
元東京経済の部下たちの働き場所を作ることはもちろん、借金に苦しむ知り合いの経営者に手を差し伸べ、自らが保証人となり銀行からの借り入れとして一本にまとめるなど、見えぬところでの厚情は語るにいとまがない。
人の死に対しても、手厚く送ることに持てる全てを捧げた。他者の訃報に接して駆け付けた葬祭場では目立たぬように、しかしすべてに目配りをする池田氏の姿に遺族は安心感を抱き、悲しみに浸りすべてを任せた。自分と触れ合った人は、みんな家族だ、熱い想いを感じさせる姿であった。
そんな池田氏だからこそ、そのネットワークは拡がり、力を蓄えていった。
福岡市だけではなく、北九州市、筑後、筑豊、全県下に福岡経営企画の名は鳴り響いた。福岡県に着任した新聞記者たちは導かれるように池田氏の元を訪れた。福岡県を離れた記者も訃報に接し、悔しさ寂しさを語る。
政界でも「池田」の名前と顔は売れていった。平成19年1月には、「福岡県民新聞」を発刊、そこでは歯に衣着せぬ主張を貫き、それが逆に多くのファンを作り出した。
数百人が詰めかけた葬祭場の前面に、福岡県議会議長、全国議長会会長、蔵内勇夫氏の弔花が飾られていたことは池田氏の生きてきた路を称えるものとして参列者の心に残った。
池田氏は情報の価値を知り尽くしていた。どんな話でも現場に赴き、関係者から話を聞いた。ある意味、神出鬼没。初めての人でも自分が興味を持てば、挨拶は欠かさなかった。福岡2区、中央区に事務所を持つ鬼木誠衆院議員や稲富誠二衆院議員、争う二つの陣営からも大切にされた。正論を意見する池田氏をそれぞれが人生の先輩として尊敬していたからだ。
「人が集まる場所では池田さんを見ないことはない。会場の入口や出口に陣取り、集会中の座席は後方中央。誰が参加しているのか、会の雰囲気は、などすべて頭に刻みこもうとしている姿を今でも憶えています」(議員秘書)
混迷の時代、まだまだ池田氏の力が必要だった。ご本人も20日、投開票の参院選の結果を知ることなく、俗世を離れることは心残りだったと思う。
だが池田氏の仕事はともに二人三脚で事業を引っ張ってきた愛息・池田浩一社長に引き継がれた。浩一社長はこの夏を出発点に大きな花を咲かせていくに違いない。
池田氏が走り抜けてきた昭和、平成、令和の時代は、日本が混迷を深めてきた時代でもあった。世の中を照らし続けてきた一人の実践的な哲学者であり、ユニークな時事評論家であった。
あなたが蒔いた芽は確実に、そして着実に育っている。あなたが築いた礎の上に新しい福岡・九州を動かす力が作られていく。
安らかにお眠り下さい。
合掌